ワークショップ「デリダ×ハイデガー×レヴィナス」
…1964年、若きデリダは高等師範学校にて講義「ハイデガー――存在の問いと歴史」を実施し、エマニュエル・レヴィナス論「暴力と形而上学」(1964年)を発表し、彼らとの哲学的対話を深化させていた。それから半世紀経った今年、デリダの没後10年に際して、これら三人の思想家に関するワークショップを脱構築研究会、ハイデガー研究会、レヴィナス研究会の共同主催で開催する。
■日時:2014年10月11日(土)10:00-18:00
■場所:早稲田大学戸山キャンパス(文学部)33号館第一会議室
地図・経路は
こちらをご覧ください。
■主催:
脱構築研究会、
ハイデガー研究会、レヴィナス研究会
■プログラム
10:00-12:00 第1部 ハイデガー×デリダ 司会:齋藤元紀(高千穂大学)
川口茂雄(青山学院大学)「前代未聞、音声中心主義」
峰尾公也(早稲田大学)「ハイデガー、デリダ、現前性の形而上学――その批判の解明」
亀井大輔(立命館大学)「自己触発と自己伝承――デリダの『ハイデガー』講義をめぐって」
13:00-15:00 第2部 レヴィナス×デリダ 司会:藤岡俊博(滋賀大学)
馬場智一(長野県短期大学)「融即から分離へ――ハイデガー講義『哲学入門』(一九二八〜二九年)の聴講者レヴィナス」
小手川正二郎(國學院大學)「暴力と言語と形而上学――「暴力」をめぐるレヴィナスとデリダの対決」
渡名喜庸哲(慶應義塾大学)「デリダはレヴィナス化したのか」
15:30-18:00 第3部 全体討論 デリダ×ハイデガー×レヴィナス 司会:西山雄二(首都大学東京)
藤本一勇(早稲田大学)、宮﨑裕助(新潟大学)
齋藤元紀(高千穂大学)、藤岡俊博(滋賀大学)
■発表要旨
川口茂雄(青山学院大学非常勤講師)「前代未聞、音声中心主義」
「音声中心主義」について、あらためて考えてみる。デリダの前期の主要著作、『「幾何学の起源」序説』、『声と現象』、『グラマトロジーについて』では、「音声中心主義phonocentrisme」や「自分が話すのを自分で聴くs’entendre-parler」といった語彙/概念が、論の中心的な賭け金を担っている。のちのデリダの著作ではこれらの語彙は登場しなくなるが、たとえば掛け言葉(駄洒落)がデリダの著述の特徴であり続けたことは、「音声中心主義」にまつわる問題系がデリダ的思索の道筋であり続けていたことを暗示しているのかもしれない。ところで、デリダの駆使するさまざまな概念/語彙は、ハイデガーのそれらを換骨奪胎するような仕方で生まれてきたものが多い。とすると、「音声中心主義」や「自分の声を自分で聴く」は、ハイデガー哲学のなかのどういうモーメントと呼応しているのだろうか? そしてハイデガーの思想は「音声中心主義」なのか? こうした点について、しばし考察をしてみたい。
峰尾公也(早稲田大学)「ハイデガー、デリダ、現前性の形而上学――その批判の解明」
ハイデガー全集の継続的刊行に伴い、当時の限られた資料によってデリダがなさんとしたハイデガー解釈を、今日より広範な資料を用いて批判的に検討することが可能になってきている。「存在」を「現前性」として規定してきた伝統的存在論に対するハイデガーの「解体」を、デリダは「現前性の形而上学」の「脱構築」として継承した。彼は更に、ハイデガー自身も依然としてこの「現前性の形而上学」の内に留まっているとみなし、ハイデガー哲学に対する脱構築へとこれを展開させる。よく知られたデリダのこの解釈はしかし、一体いかなる点においてハイデガーが「現前性の形而上学」に留まっていると言わんとしているのか。ハイデガー哲学において「現前性」は決して一義的に理解可能なものではなく、彼の問いの移り変わりに応じて多様な仕方で語られているものである。然らば、「現前性」の意味はまさしくそれを論じる際にハイデガーが立てている問いとの関係において見定められねばならない。
それゆえ本発表では、第一に、前期のハイデガーにとって「現前性(Anwesenheit)」がどのように理解されていたのかを、特にマールブルク期の幾つかの講義ならびに『存在と時間』を通じて確認し、第二に、そうした前期の問いからの変化が生じている後期のテクストにおいて、この概念がどのように理解されているのかを明らかにする。第三に、「ウーシアとグランメー」におけるデリダのハイデガーに対する「現前性の形而上学」という批判の解明を試みる。
亀井大輔(立命館大学)「自己触発と自己伝承――デリダの『ハイデガー』講義をめぐって」
昨年刊行された『ハイデガー――存在の問いと歴史(1964-65)』は、初期デリダがどのようにハイデガーを読解したかを明らかにする講義録である。従来の『グラマトロジーについて』や『哲学の余白』などで読める初期デリダのハイデガーをめぐる議論は、断片的・部分的なものにとどまり、その全貌はみえにくかった。しかし本書は、現存在の固有性、存在論的差異、「現前の形而上学の脱構築」、隠喩、本来性/非本来性、といった重要な論点を提出しつつ、デリダのハイデガー理解の道筋を具体的・全体的に描き出すものであり、初期デリダとハイデガーとの関係を考察する上で欠かせない資料である(さらには、「ウーシアとグランメー」はこの講義の続編として位置づけられることで、より十全な理解が可能となる)。
さて、本書の後半部では、『存在と時間』第二部の時間性と歴史性の問題についての読解が繰り広げられている。そのなかでデリダは、『存在と時間』第74節に登場する自己伝承(Sichüberlieferung)という概念に注目し、それを「自己触発」(Selbst-affektion)――周知のように、『カントと形而上学の問題』において登場した概念――の別の側面として解釈している。デリダにおいて「自己触発」は、他なるものの触発を同時的に含んだ自己の触発として捉え直されることで、「差延」の運動を表わす用語のひとつとなっているが、本書の議論は、この概念が歴史性としての側面をもち、「反復」の問題と結びついた「自己」の「伝承」でもあるということを示している。
本発表はこうした議論に注目する。それを考察するために、まず準備的作業として『ハイデガー』講義におけるデリダの『存在と時間』読解の道筋を簡潔に辿ったうえで、次に自己伝承としての自己触発の議論に焦点を絞りこんでデリダの解釈とその内実を明らかにし、それによってデリダの自己触発の概念に歴史の次元を読み取ることにしたい。こうした読解によって、初期デリダの脱構築論にハイデガーが不可欠な位置を占めていることがあらためて明確になる。たとえば『声と現象』の反復可能性や〈自分の声を聞く〉などの問題系は、以上のハイデガー解釈を前提としつつ、ハイデガー哲学を批判の射程に含んだ議論であることが判明すると思われる。
馬場智一(長野県短期大学)「融即から分離へ――ハイデガー講義『哲学入門』(一九二八〜二九年)の聴講者レヴィナス」
フライブルク留学に関して、レヴィナスはフッサールに会いに行き、ハイデガーを発見したと回想している。留学の最後の時期にハイデガーの推薦状を得てダヴォスに行き、カッシーラーとハイデガーの間の世紀の討論を目の当たりにしたレヴィナスは、パリから来たガンディヤックらに『存在と時間』の解説を長々としてみせたという。すでにこの名著の枢要を自らのものにしていた若きレヴィナスは、このダヴォスセミナーの直前にフライブルクで行われていた講義をどのように聴いたのだろうか。いわゆる形而上学期に入っていたハイデガーは、一九二七年の主著とは違った歩みを見せ始めていた。おそらくレヴィナスはこの講義をかなり批判的に捉えていた。その痕跡を『時間と他者』のなかに読み取ることができる。『哲学入門』で展開される相互共存在および分有の論理は、『全体性と無限』で展開される「分離」という発想がもつ批判の射程に完全に含まれている。本発表では、以下の点を検討しながら、『哲学入門』で示された共存在概念との全面的対決のなかでレヴィナスの分離概念を捉え返してみたい。1.『時間と他者』(一九四八年)とヴァールが『哲学入門』を扱ったソルボンヌ講義(一九四六年)の関連。2. レヴィナスが行った融即概念の検討(レヴィ・ブリュール、ルイ・ラヴェル)と『哲学入門』における相互共存在。3.『哲学入門』に一部を依拠したハンス・ライナー『信の現象』とレヴィナスによる書評。最後にこの「対決」を踏まえ、共同性に関する二つのタイプの思考の相違について考えてみたい。
小手川正二郎(國學院大學)「暴力と言語と形而上学――「暴力」をめぐるレヴィナスとデリダの対決」
2014年は、デリダ没後10年にあたるだけでなく、デリダのレヴィナス論「暴力と形而上学」(1964年)発表から半世紀という節目にあたる。筆者はこれまで、「暴力と形而上学」に端を発するレヴィナスの「デリダ的読解」への応答を、『全体性と無限』の再読解を通じて試みてきた(拙論「レヴィナスにおける他人(autrui)と〈他者〉(l’Autre)――『全体性と無限』による「暴力と形而上学」への応答」、『哲学』第65号、日本哲学会、2014年参照)。本論は、この一連の応答の試みをより包括的な視点から再吟味し、『全体性と無限』以後のレヴィナスの歩みを視野においたうえで、「暴力」をめぐるレヴィナスとデリダの議論がいかなる点で異なり、いかなる点で(互いに対して)より厳密と言えるのかを、具体的な形で提示することを試みる。
まず、レヴィナスの「デリダ的読解」に対して『全体性と無限』の真の論点を浮き彫りにする。(1)レヴィナスは、他者(l’autre)を他人(autrui)に縮減する人間中心主義者であるのではなく、他人との関係の分析において〈他者〉(l’Autre)という概念の必要性を論証している。(2)『全体性と無限』は、「他者への暴力」ではなく、自我に働きかける〈他者〉の暴力および非暴力(「自我への暴力/非暴力」)を主題としている。(3)レヴィナスは、言語を、他者を名指す暴力に縮減することなく、言語の名指し機能を特権化する言語論に対抗しうる肯定的な言語論を提起している。本論は、とりわけ三つ目の論点がいかなる具体性・厳密さのもとで提示されうるかを後期レヴィナスの歩みも射程に入れたうえで論ずる。そのために、こうしたレヴィナスの論点との対比のもとで、「暴力と形而上学」やデリダの後の論考に見られるデリダ独自の暴力論の展開可能性を具体的な形で示す。このようにしてデリダには欠けているとされてきた体系的議論を再構成し、具体的な事柄に即してレヴィナスの議論との体系的な比較をなすことが可能となる。最終的には、「暴力」をめぐるそれぞれの洞察が、現実の「暴力」的な事象に、いかなる角度からいかなる厳密さでもって迫っていると言えるのかを検討したい。
渡名喜庸哲(慶應義塾大学)「デリダはレヴィナス化したのか」
今日的な視座からデリダ×レヴィナス(×ハイデガー)の関係を再考するにあたり、まずもって、前二者の死後に公刊された講義録や講演の記録などによって徐々に明らかになりつつあるコーパスに目をやる必要がある。なかでも、本発表は、レヴィナス『著作集』第一巻「捕囚手帳」にある「現存在かJか」との二者択一から出発したい。この一文は、戦中の捕囚収容所でつづられていた手帳に見られるもののため「ユダヤ教(judaïsme)」が略字で書かれているが、そこにはハイデガーに対する態度決定と「ユダヤ的存在」なるものを自らの哲学の骨格としようとするレヴィナスの意気込みが見てとられよう。ところで、この文句が惹起する問題系は、レヴィナスがその後に展開してゆくその哲学的企てがいかなるものであったかを再考する必要性を示唆するばかりでない。« Jewgreek »と« greekjew »とについて、あるいは「アテネ」と「イェルサレム」について、デリダの「暴力と形而上学」が一見すると脱構築したかに見えるにせよ、この問題系全体は、今日――デリダの「仏語圏ユダヤ人知識人会議」参加および2000年のデリダ・コロック「ユダヤ性(Judéités : questions pour Jacques Derrida)」の後で――もう一度考えなおすべきように思われる。とりわけ80年代以降のデリダが「正義」や「メシアニズム」等の「レヴィナス的な」語彙を用いるようになり、ユダヤ系の思想家への言及を増やしていっているのが事実だとすれば( « Interpretations at war », Les yeux de la langue, etc.)、なおさらそうであろう。なかでも正義、許し-救済-和解、メシアニズム、贈与/犠牲といったさまざまな論点において、後期デリダとレヴィナスが見せる周知の近しさについて改めて検討しなおす必要がある。ちなみに、こうした主題は何某の哲学者における「ユダヤ性」云々に還元されない。レヴィナスが「捕囚手帳」において、ハイデガーの「被投性」を「遺棄(déréliction)」と訳し、これに「父」による「任命」を対置し、さらにそこに「救済」を読みとっていたことを考えると、そこから、デリダ×レヴィナス×ハイデガーを考える際に重要な一つの視角が得られるだろう。
※ポスター差し替え(2014/08/13)