去る7月4日~9日にトゥールーズにて開催された『困難な自由』の読解(" Lectures de
Difficile liberté ")をめぐるレヴィナス国際学会について、発表者として参加された小手川さんより報告文を頂戴いたしましたので、以下に掲載いたします。
報告文は3部構成となっており、この投稿ではその第1部を掲載いたします。第2, 3部につきましては、後続の投稿をご参照ください。
なお、html版では第1,2部をまとめて読むことができます。
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学会プログラム
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各発表者の要旨
レヴィナス国際学会@トゥールーズの報告(1-2)(小手川正二郎)※html版
7月3日
深夜トゥールーズに到着。空港からは市内行きのバスに乗車し、トゥールーズの中心キャピトル付近で下車。手配してもらっていた大学寮(Cité universitaire chapou)の地図が誤っていたため、メトロでトゥールーズ大学(ミレイユ)に行ったり、再びキャピトルに戻らされたり散々なことに。最終的にはキャピトル付近でベトナム人と中国人の学生をつかまえ、彼女たちに助けてもらい何とか2時過ぎに到着。こういうときアジア人の関係は大事だとつくづく感じます。
7月4日
テアトル・ガロンヌという劇場にてコロック初日。
トゥールーズはパリとほとんど同じ自転車システムがある。クレジットカードを持っていれば手順に従って、一日(1ユーロ)、一週間(5ユーロ)から借りられる。システムはパリと同じで30分ごとに返却→乗り換えを繰り返せばどれだけのっても規定料金以外取られない。パリよりも車両が少なく町自体も狭いので、一週間で借りてコロック期間中は、自転車を活用した。トゥールーズに行かれる方にはお勧め。
初日のコロックは、レヴィナスの映像、『困難な自由』再版を記念したJosy Eisenbergによるインタヴューから始まる。レヴィナスがインタヴュアーの乱暴な質問に戸惑いながらもできるだけ丁寧に答えようとするもの。合理主義と非合理主義という対立をレヴィナスが単純化であるとし、自分は聖なるもの(le sacré)や匿名の力(puissance anonyme)を批判する一方で、他に何も残そうとしない合理性(rationalité qui ne veut laisser rien d’autre)も拒否すると語っていたのが印象的であった。最後に、「真理以外に何か存在するのか」という問いに対しては、戸惑いながらその質問を肯定しても否定しても誤解が起こる可能性があるので答えられない、代わりに「真摯さ」、語りの一性質ではないような「真摯さ」について語りますと言って終わる。
講演は、Jan Sokol(チェコ)とMartin Matustik(アメリカ)から始まる。
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Jan Sokol, L’éthique de l’héritier
レヴィナスの思想をいくつかの側面(段階)にわけて実践哲学として見るというものであった。実践哲学としてレヴィナスの思想を見るなら、一方で(不誠実さなどに関する)懐疑論をどうやって乗り越え、カントの道徳判断やニーチェのモラルとの対比が問題となる。Sokol氏は、レヴィナスにおける「経験」概念の拡張やハイデガーの影響下での現象学の限界の乗り越えを語るなかで、レヴィナスの立場が普遍性を基礎づけるものであると考えようとしていた。
〔寸評〕
実践哲学との対比からレヴィナスの思想を評価するという発想それ自体は興味深いものの個々の議論がどのようにその発想に寄与しているのか判明ではなかった。しかも「経験」概念の拡張や現象学の乗り越えといった、非常に多くの問題を抱えるテーマがさらりと語られてしまっていたので疑問を覚えた。確かにレヴィナスも「普遍性」を基礎づける「倫理」といった主題を語るが、問題はこうした普遍性がいかなるものであり、いかなる妥当性と展開可能性を有するのか、この発想が実践哲学としていかなる価値をもつのかという点にあるように思われる。
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Martin Matustik, The Difficulty of Un/Forgiving
赦し(forgiveness)の可能性と不可能性について、レヴィナスから離れて赦しの宛先、罰の宛先、赦しの可能性(およびトラウマ)の伝達、人道に対する罪(crimes against humanity)が誰に対する罪なのかを考えるものであった。「人道的に赦しえない」(humanly unforgivable)と「原理的に赦しえない」(unforgivable in principle)という区別を導入しつつ、赦しを「赦しえない者を赦すこと」として考えていく。赦しえない行為とは、怪物(理性を失った者)によってなされるのではなく、罰の対象となりうる人によってなされるということ、トラウマの歴史的な伝達の可能性と赦しの(不)可能性がポルポト派の虐殺を題材に語られた。
〔寸評〕
赦しというテーマを具体的に考察した点では大いに刺激的であった。題材がポルポト派の虐殺だったために若干重苦しく、また政治的色合いが強くなってしまった感もあったが、赦しと不可能性とトラウマの歴史的な伝達の可能性に関する問題提起は参加者には受けていた。
私は、赦しの概念が赦す者と赦される者とでは必ずしも一致しないのではないかということを質問したかったが、質問時間がなかったため、そしてこの発表者が大会開催中あまり姿を見せなかったため(…)質問できなかった。レヴィナスは、『困難な自由』のなかで、神でさえも人が他人にした行為を取り消すことはできないことを強調している。この立場からすると彼は基本的に「赦し」の全面的な不可能性を主張しているようにも思われる。この点については「自我と全体性」における「赦し」の考察とあわせて吟味されるべきであろう。Matustik氏は、殺された者が殺した者を赦すことは原理的に不可能といったことから始めて、死者による赦しの可能性、トラウマの伝達可能性などを考察していたが、これは少なくとも『困難な自由』に限ってみるとレヴィナスの問題系にはあまり当てはまらないように思われる(「旗なき名誉」という論考にはこの問題系を読み取ることもできる。村上先生の御指摘ではレヴィナスのアグノン論がこのテーマを扱っており、村上先生のご論文があるとのこと)。問題は、次の点にあるように思われる。仮に私が被害者であるとして、私が加害者を赦すことはできる。しかし、このとき加害者に与えられる赦しは、加害者が受け取る赦しとは必ずしも一致しない。多くの場合、両者は一致しているようにも見えるが、前者は単に後者の一つの要素でしかないと考えうる。死者による赦しの不可能性→死者の赦しの伝達可能性という問題の運びは、この点において必ずしも自明ではないように思われる。
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Georges Hansel, Singularité d’Israël et universalité morale - Commentaire talmudique
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Jacques Assernaf, Une présence lumineuse
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Ariel Wizman, Génération Levinas
レヴィナスの娘婿Hansel氏の発表については、私より適役の方がまとめてくださることを期待。あと二人は、レヴィナスの教え子二人による思い出話。若干冗長かつあまりいい思い出話が聞けなかったのは残念であった。
22時を回った頃、イスラエル師範学校の卒業生によるレヴィナス80歳御祝いの会でのレヴィナスの映像が最後に流される。ここまでの話を耐えてきた人たちに対する御褒美であった。食事前に挨拶を求められたレヴィナスが師範学校のことや「感謝」について夕飯そっちのけで情熱的かつユーモラスに語りまくるというもので感動的だった。「6 bis Michel Ange(師範学校があった場所らしい、59rue d’Auteilにその後移転した?この点、詳細を御存じの方は訂正願います)にユダヤ人たちの文明化(civilisation)への入り口が存在した」と熱く語り出す。そうした場が、環境(ambiance)としてではなく、(1)ある典礼的な文脈(contexte riturgique)において、(2)テクストの研究を通じて生じていたことをレヴィナスは強調する。そうした意味でその場所は、語りのうちで生じたもの、行為である(acte, ce qui se passe dans le monde)。長々と感謝の言葉を述べた後、あなた達もご飯を食べたいだろうから最後に一つだけタルムードの注釈をしますと言って、さらに語り続ける。あるラビがある箇所(聞き逃す…申し訳ない)を注釈して次のように述べた。「神は感謝を与えられた」と。食べ物でも優しさでもなく、「感謝を与えられた」(donner la grâce)と。レヴィナスは、この表現がどれほど素晴らしいかを語る。次のラビは、「感謝に対する感謝を与えられた」、「三つの感謝に対する感謝を与えられた」と表現を増幅させていく。この後、ラビによる表現増幅が続く(Malheuresement, c’est pas finiとラビの解釈が続くことをユーモラスに語っていたのが印象的だった)。最後に、(私の聞き間違えでなければ)聴衆に向かってレヴィナスは次のように語って感動的に話し終える――" Je me rend la grâce pour trois grâces. "